大使館
大使館の歴史
ロシア外交使節団の歴史について
1855年に下田で締結された日露和親条約により、日本政府はロシア領事館のために、「土地と家屋」を提供する義務を負った。また1858年の日露修好通商条約では、ロシア外交代表者に日本の首都での定住権が提供されている。
最初に建てられた領事館は函館の旧ロシア領事館で、この建物は今日まで残っている。その当時、まさにこの建物で北海道の人々はヨーロッパの建築様式を知ることになった。
函館領事館

函館市。旧ロシア領事館。
外観(正面)。
1858年10月24日(ロシアの旧暦)または安政5年9月30日(日本の旧暦)、ヨシフ・アントーノヴィチ・ゴシケービチ六等官を長とする最初のロシア領事館の行使団は、露米会社が所有する「ジギト号」で日本の町、箱館にやってきた。箱館の町はその本来の美しさでロシアの旅人を迎えた。すでにもみじの紅葉が始まり、絵のように美しい標高300メートルの山に、袖長い帯のようになだらかな海岸線が隣接していた。
ひとまず、現地の寺の実行寺と高龍寺を仮のロシア公使館とした。その当時の箱館奉行の日記によると「領事とその妻と母、秘書、海軍将校、医者、聖職者、医者の妻、男女それぞれ4人と2人の使用人が実行寺を借宿にしている」と書かれていた。ゴシケービチ領事は、公使館の地所として町の一画を分与してくれるよう、ただちに日本幕府との交渉に入った。
ロシア外務省からゴシケービチ氏に与えられた詳細指示書には、特に次のように述べられていた。「箱館に着いたら、貴殿は、皇帝陛下のご承認されたご命令により、その町で学校や病院、施設の建設計画を企図し、この計画実行に必要な手段を事前に取り計らい、今後承認のあるまでは計画を秩序通り遂行すること。条約(編集注:1855年に下田で調印された日露の条約)にある領事館用に割り当てられる地所は、日本の全権代表がポシエート艦長に口頭で約束したとおり、市の区域内になければならず、当然のことながら領事館としての複合建築物ならびに、商品・石炭を保管できる倉や来客者用宿泊施設を建てるために必要な設備と十分な広さを兼ね備えていなければならない。しかし、予定している建設の数値や種類などについては、事前に日本幕府に知らせてはならない。上述されたことはすべて皇帝陛下の命令によるものである。」
指示書に記載されているポシエート氏が得た合意とは、1856年に下田でポシエート氏がロシア側全権として日本側全権の井上信濃守と1855年の条約(日露和親条約)の批准書交換をしたときの合意であったと推測することができる。
ゴシケーヴィチ氏と箱館奉行との交渉は難航した。「日本側は市から3㎞も離れた土地を提案してきた。」と1858年12月にロシア領事は外務省に伝えた。それは山の麓の、非常に風の強い場所だった。ゴシケーヴィチ氏は日本側の代表に異議を唱えた。

函館市。旧ロシア領事館。
外観(裏庭)。
「外国人をみな一カ所に住まわせようとする、あなた方の努力は無駄だ。長崎でオランダ人に対してとった方法は、もはや通用しない。」その上で、ロシア領事は市内地図上で空き地になっている土地区画を4つ示し、その中の一つを分与してくれるように頼んだ。日本の首都、江戸(現在の東京)からの最終返答が待たれた。その間に、日本側から割り当てられた資金で、日本が提案した土地に病院とロシア風サウナを建てた。
今では、この建物はほとんど都市の中心部にあるが、その当時は遠い町外れだった。この二つは小さな建築物だった。病院内には、医者の住居スペースがなかったため、医者は領事と実行寺に同居した。この最初のロシアの建物は現存していないが、日本の歴史書の中に、この建物についての記述が残ってあり、特に「ロシア病院の窓はガラスで出来ている」と書かれている。
まもなく、病院はもう必要がないことが分かったが、1859年5月にゴシケーヴィチ氏が書いているように、彼は病院の建物を残すことにした。この中にはロシアの囲炉裏、ペチカがあり、そこでパンを焼いたり、ロシア風乾パンを作ったりすることができたからだ。1861年には病院が火事で焼失したため、建て直さなければならなかった。病院の新しい建物はロシア領事館の近くに建てられた。後に領事館付きの医者になった七等文官アルブレヒト氏は次のように書いている。「病院用の場所を獲得するために我々の領事は大変苦労した。はじめのうちは、この先いっさいロシア人のための地所を要求しない、と領事が書面で約束するという条約付きで土地の割り当ての話が決まった・・・。」

函館市。旧ロシア領事館。
建物内部(階段)。
ゴシケーヴィチ氏が箱館に来てから3ヵ月が経ったが、領事館建設のための地所問題は解決していなかった。ゴシケーヴィチ氏は箱館奉行に催促の手紙を書いた。やっと日本幕府から地所の分与についての知らせが届いた。それは、最近たくさんの建設がはじまっている海岸沿いの土地だった。この当時のできごとの経過については、次のように書かれている。「一方では、ロシア領事館の地所が必要だったが、他方では、よそ者を町の中心に住みつかせるなという命令が出され、箱館奉行は思案した。町はずれにすばらしい杉林の山があった。この場所は江戸からの命令にも合致するし、政治の中心としての外観もすばらしいが、困ったことに、私たちが考えるような山の広い敷地にロシアの建物を造るには、山があまりにも険しく急勾配すぎた。どうすべきか?
箱館奉行は、膨大な数の労働者をかき集め、短時間の間に山から巨大な一区画を切り出した(縦横が数十サージェン―ロシアの旧尺度=約2.134メートル―もある)。ちょうど、広い練兵場と領事館の複合施設、さらに教会と職員と医者の家まで建てることができるくらいの一区画だった。」
領事館の設計図作成にはロシア領事自身と領事館の職員である海軍将校ナジーモフ氏が参加した。建設のために雇うことができたのは、日本の建築様式に慣れている日本人職人だけだった。このため、領事館の内観は日本家屋風に、外観はヨーロッパスタイルに建築するよう決められた。できあがった設計図に従って、二階建て建造物の領事館とロシア人家族用住居として四つの平屋が建設された。領事館建設は、かなり速いテンポで進んだ。箱館奉行自らが建設過程を監督し、ロシア代表の依頼をすべて実現した。
1860年4月、ロシア領事館の職員たちは新しい建物に移った。その建物を見た人がこんな感想を述べている。「箱館港に停泊して町を眺めると、見えるのはヨーロッパ建築の建物は一つだけ。まるで町を指揮しているかのように、他の建物よりも高いところに建ち、他のものよりも美しく快適な建造物。それが私たちの領事館だ。」このようにして、ロシア領事館の拠点は建設されたのだった。ロシア外務省からの指令がゴシケーヴィチ氏に届いた。「次の貴殿の任務は、日本の政治機関と影響力のある人々に会い、日本国大君(対外的に用いられた将軍の呼称)についてできるだけ情報を得ること。」しかし、ロシア領事は、すでにもう大量の仕事をかかえていた。

函館市。旧ロシア領事館。
建物内部(階段)。
箱館に到着するとまもなく、ゴシケーヴィチ氏は正教教会の建築に着手した。最初教会は他の区域に建てられたが、のちに領事館のそばに新しく建設された。1859年6月、日本で礼拝を行うため、最高宗務院によって公式に任命されたワシーリー・マホフ神父が箱館に到着した(これより以前、同氏はプチャーチン氏の遠征の一員としてフリゲート艦『ダイアナ号』で日本を訪れた経験があり、ダイアナ号沈没と新しい船『ヘダ号』の造船、そして下田で1855年の日露和親条約締結を間近で見てきた人物だ)。しかし、聖職者ワシーリー・マホフ氏が箱館にいたのは短く(約1年間)、その後ロシアへ戻ると、彼の親戚で、教会の勤めをよく知っているイワン氏が代わりに日本へやって来た。
その後、箱館の聖職勤務者として任命されたニコライ(のちに、日本での活動により、聖ニコライ・ヤポンスキーとして聖列に加えられた)が、1863年に宗務院の検事長アフマートフ氏に送った手紙には、「1861年にこちらへ到着すると、私は、すでにここに建設され清められたキリスト復活という名の教会に出会った。教会の建築土と執事長である領事ヨシフ・ゴシケーヴィチ氏によって、その名はつけられた」と書かれている。教会として神聖化されたのは、おそらく、1859年の3月か4月ごろと思われる。この洗礼式に参加した一人はこう書いている。「ご婦人方は教会を飾り付け、私たちの画家はイコンを描いた。この国でキリスト教が禁止されてから221年後、全員が誠心誠意、日本で最初のキリスト教聖堂の建設に参加した。」
1856年、ロシア領事館を不幸が襲った。英国領事邸で火の不始末から大火災になり、それがロシア領事の住居にも飛び火した。公館の建物はほとんど全焼したが、消火活動のおかげで教会だけは救うことができた。火災のために、ゴシケーヴィチ氏が日本で数年間にわたって集めた豊富なコレクションが失われ、ロシア領事館に大きな損害を与えた。翌年には箱館を激しい嵐が襲い、領事館の建物はひどく損傷を受けた。避難のため、ロシア外交官たちには一時的に別の住居が提供された。石造りのしっかりした領事館を建てる必要性が明確になったが、それがやっと実現したのは、1902年になってからのことだった。1916年には石造の正教寺院が完成し、その教会は今日まで現存している。
つい最近、函館に在札幌ロシア連邦総領事館の在函館支部ができた。在函館支部はまだ、極東国立大学の函館校内に置かれている。1964年に行われた外交文書交換の際、ロシアと日本が第二次世界大戦後の相互請求を拒否したため、ロシア領事館の建物は日本の管理下に移された。旧ロシア館は現在、函館市役所の管理下で記念館として保存されている。
- 参考文献:
- 「ロシアと日本:信頼への歴史の道のり」
- モスクワ:「ヤポーニヤ・セヴォードニャ」出版社。2008年。