大使館

大使館の歴史

在京大使館

1868年の明治維新までの長い年月、江戸(今の東京)は外国人にとって事実上閉ざされた領域だった。ごくまれに、外交通商団が何か月もかけて交渉し、やっとの思いで将軍の城・江戸城を訪問する許可をもらうことができた。
1858年にはじめて東京(江戸)を訪れたのは、ロシアの初代公式代表プチャーチン伯爵だった。プチャーチン伯爵は随伴の将校たちと共に、横浜から東海道を通って江戸に入り、真福寺に泊まった。1858年8月8日、日露修好通商条約が締結され、江戸のロシア公館建設についても具体的に条文に記載された。

その後、ムラヴィヨーフ総督(1859年)、函館にロシア領事館を築いた初代領事ゴシケーヴィチ氏(1861年、1862年)、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公(1872年)らが日本の首都を訪れた。そして、明治天皇と大公との会見の結果、ロシア正教会と大使館のために地所分与の許可が与えられた。
1872年8月7日(8月19日)、ロシアのビュッツォフ公使は、副島種巨日本外務大巨に手紙を送り、「私は、帝国勤務代表の住居として、我が政府の費用で、この国の首都に日本人の渡辺から建物を買った・・・」と報告している。(これは駿河台の土地購入についての話。)
書簡のやりとりは遅々として進まなかったが、当時の日本では当たり前のことだった官僚的な業務の遅さを考えれば、これは普通のことだった。1873年9月5日、ビュッツォフ氏は再度日本側に対して、「ロシア外交代表部とその官僚職員用の建物」の敷地(今度は虎ノ門周辺)の購入の許可を申し込んでいる。
1873年中頃、ストルーヴェ氏が日本のロシア公使に任命された。彼こそが、東京にロシア大使館(当時は総領事館の扱い)を建設するために、大変尽力した人物である。

1875年サンクトペテルブルグで、ロシアと日本の間で条約が結ばれ、二国間はさらに信頼かつ友好的な関係を築いた。これがロシア大使館建設に対するさらなる刺激になったと思われる。大使館の建設は1876年に開始された。この建設の見取り図が何枚か残っているが、それは「ロシアスタイル」で、小さな塔がついた古風なロシアスタイルの建物だった。建築家のロペット(ペトロフ)氏とハルラーモフ氏が設計にあたった。有名な芸術評論家スターソフ氏はこの建築物について次のような意見を述べている。「ロペット氏の石造建築(日本におけるロシア大使館の建物)は、家というよりは、真の宮殿だ。屋根に鷲を掲げた、この見事なモスクワ風の美しい塔は、極東の地で我が国を代表する建物としては申し分ない。この建物はアーチ形の二重窓ですっきりと引き締まっている。・・・そして、重厚さと模様の見事なバランス。気品に満ちて、穏やかで、偏りがなく、それでいて、アジア風でもあり、ロシア風でもある。」この設計は、非常に高い芸術的な評価を受けたものの、日の目を浴びることはなかった。

結局、1876年に、日本政府の依頼で東京の中心部の建設に関与していたイギリスの建築士スメードリ氏が、ロシア公館の建設に着手することになった。スメードリ氏が、裏霞ヶ関の一画に、明るい二階建ての邸宅を建設した。建物の側面には二つのバルコニーがつき、壁面上部には双頭の鷲が描かれた半円形の帯状装飾がほどこされ、壁の軒の上部には白い欄干がつくられ、正面は二列の円柱で飾られていた。エレガントな格子状の入り口の門はとても美しく、門柱の上部には街灯がついていた。1870年代の東京では、ヨーロッパタイプの邸宅はまだ珍しく、ロシア大使館の建物は、ひときわ目立つ存在だった。
画家ヴェレシチャーギン氏が1904年に東京を訪れたとき、次のように書いている。「東京のロシア公使館の建物は、あるいは他の強国の公館の建物にも少しも劣らないだろう。通りすがりにも気がつくほど非常にりっぱだ。この公館は、ロシアの省庁の栄誉にふさわしいものである。」
しかしながら、しばらくするとロシア外交官たちは住み慣れた公館から去らなければならなかった。1904年に日露戦争がはじまり、東京のロシア領事館は閉鎖された。
ポーツマス講和条約(1905年)締結後、ロシア公使館はふたたび機能を開始し、1907年には格上げされ、最終的には大使館となった。その年に、マレーフスキー=マレーヴィチ氏が東京のロシア公使に任命された。来日して7年目に、彼は大使館を拡張し、増築することにした。1914年末、ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公の訪日に合わせて、大使館の木煉瓦の壁に、すばらしいインテリアが施された大きな二階建てのレセプションホールが増築された。 大使館は非常に丹精込めて建設された。そのことは、1923年9月1日の大地震のときもロシア大使館の建物はほとんど損壊しなかったという驚くべき事実が物語っている。

この震災の恐ろしい日々、大使館の庭は一時的な避難所となり、東京やその周辺に住むロシア国民が食料や医療看護を受けられるテントが設置された。
天災だけでなく政治的な嵐も、ロシア公館を揺るがした。1925年までこの建物には、ロシア皇帝に最後まで忠実な外交官たちが住んでいた。ロシア・ソビエト連邦と日本が条約を締結して以来、チチェーリン氏の外務省代表たちが来日し、この建物に入った。しかし、すぐに彼らは狸穴坂に建てられた新しい建物への転居を提案された。町の幹線道路がロシア大使館の敷地を通って建設されるために、住居を移転しなければならなかったのだ。
1928年、新しいロシア(ソ連)大使館が建てられた。この建物について、1956年~1957年に駐在していた東京のソビエト連邦代表部長チフヴィンスキー氏は次のように書いている。「ソ連大使館の建物は東京の中心からそれほど離れていない狸穴坂に位置する。大きな窓がついた細長い二階建ての白いコンクリートの建物は、煙突がそびえたつ白い汽船が緑の中に埋もれているようだ。建物の後ろには小さな庭が隣接し、敷地の入り口から見て右手部分には、代表部の職員たちの住居である二つの小さな二階建ての木造家屋があった。大使館の建物は30年代はじめ、アレクサンドル・アントノヴィチ・トロヤノフスキー大使の時代に、頻繁に起こる地震のために耐震コンクリートブロックの基礎が築かれた。」
1941年~1945年は、ソ連大使館にとって困難な時期だった。日本の真珠湾攻撃後、米軍は、東京や他の都市に大々的な空襲で応酬した。アメリカ空軍の最初の標的の一つになったのは、自らの米国大使館だった。しかしながら、焼夷弾はソビエト公館の敷地内に落ちた。目撃者はこう語っている。「大使館敷地内の施設と住居、庭の木々、車庫に入っていなかった車は、あっという間に火の海に包まれた。」アメリカ空軍の攻撃は続いた。誰もこの突然の攻撃を予期していなかったため、スメタニン大使は早急に防空壕をつくるよう日本の外務省に要求した。遠いモスクワからその分野の専門の技術者が呼び寄せられた。さっそく作業は開始されたが、約二年間も続いた。(現在、防空壕跡は地下駐車場として使われている。)米軍のもっとも激しい空襲は、1945年3月9日と5月25日だった。大使館敷地内の大部分が焼失し、焼け残ったのは本館事務所だけだった。

日本の降伏後、ソ連大使館は廃止された。大使館の敷地には一時的に、連合国会議日本極東委員会のソビエト代表部が置かれた。1951年9月、サンフランシスコの交渉で、ソ連代表団が日本との平和条約案に調印するのを拒否したために、日本政府はアメリカの援護を受けて、東京からソビエト代表部の追求を要求した。サンフランシスコ条約公布後まもなく、日本外務省議定書部門の部長が東京のソビエト外交官事務所を訪れ、1952年4月28日よりソビエト代表部の外交的地位を認めず、その構成人数を10名以下に減少することを要求する、と口頭にて言い渡した。1956年まで日本外務省は、ソ連代表部から送られてくる書簡や文書の受け取りを完全に拒否し続けた。
1956年から、日本の外務省はソビエト大使館の公的な地位を認めるようになったが、ソビエト大使館を「漁業協定実現と北西太平洋災害被害救助のためのソビエト連邦代表部」と名付けた。
時は流れ、国家間の露骨な敵対意識も次第に緩和されてきた。1956年10月、ソ連と日本の国交が復活し、それと共に東京のソビエト公館の地位も上がった。日本に到着した外交官は、老朽化した事務所と空襲で損傷した敷地の復旧作業、また新しい建物の建設作業に携わらなければならなかった。1960年代には、品川区にロシア通商代表部の建設が始まった。
10年は経過し、大使館の古い建物を新しく建て直すこのになった。チフヴィンスキー氏は次のように記している。「70年代初め、ソ連大使トロヤノフスキー氏の時代に、古い二階建ての建物が取り壊され、その後地に近代的な高い大使館が建設された。また、古い木造家屋があった場所には、大使館職員用の数階建ての住宅が建った。」ロシア人建築設計士クリモフ氏とアルチャン氏、それに日本の建設会社「大林組」は、1976年に大使館の建物を建設した。新しい建物の企画者は、全体の景観を崩さないよう、周囲の雰囲気にこの建物が「マッチするように」建てた。

参考文献:
「ロシアと日本:信頼への歴史の道のり」
モスクワ:「ヤポーニヤ・セヴォードニャ」出版社。2008年。